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【自由民権】板垣退助・中江兆民・楠瀬喜多、頭山満翁との交流に驚愕!

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弊ブログは、高知県関連の方々との交流があった人や、その方々をご紹介していくブログです。自由民権運動の板垣退助、楠瀬喜多。そして東洋のルソーと言われた中江兆民は高知県出身者です。

【自由民権】板垣退助⇒頭山満翁との交流!中江兆民・楠瀬喜多との交流!

頭山満と聞けば、誰しもが右翼の源流という表現を思いつくでしょう。
ではありますが、それだけでは収まらない人物が頭山満翁です。
 
近年(2017)に発刊された書物でも話題になりました。歌手の松任谷由実さんと、頭山満が親戚筋に当たるとの驚くべき本です。その本については、この記事の一番下で書いています。
 
この記事は、高知県と頭山満翁との関係が主体になります。板垣退助・楠瀬タキ・中江兆民などの高知県出身者と頭山満には、交流がありました。そのお話を「頭山満伝」(井川聡 著)を参照し、書き綴ってみました。

 
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出典:amazon.co.jp

頭山満(とうやまみつる)

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25歳の頭山(1880年ごろ)
出典:ja.wikipedia.org
■1855年、福岡藩(筑前国早良郡西新町)生まれ。
■向陽社を設立(1881年「玄洋社」と改名)
■大アジア主義を唱え政財界に大きな影響力を行使。
■1944年没。

頭山満は、孫文やインド民族運動の指導者ビハリ・ボースなどを積極的に援助した事でもその名が知られています。

 

板垣退助(いたがきたいすけ)

1837‐1919(天保8.4.17‐大正8.7.16)
■政治家,自由民権運動の指導者
■旧姓乾(いぬい)。幼名・乾猪之助。土佐藩上士。
■生誕地:高知城下中島町(現・高知県高知市本町通2丁目)
■1870年政府の参議。その後、征韓論で敗れ西郷隆盛などとともに下野。
■1898年憲政党を基礎に第1次大隈内閣(隈板内閣)成立。内相に就任。
憲政党の解党,立憲政友会成立とともに、政界を引退

 
板垣退助は、自由民権運動に没頭する余り、晩年、生活が困窮し、
維新の功労により拝領した刀を売ろうとしたことさえ、あったという。
 
西郷隆盛と共に、参議を辞して下野し、
植木枝盛らと民権結社のさきがけ「立志社」を創立した。

中江兆民(なかえちょうみん)

生年:1847年11月1日
没年地:1901年12月13日 東京
■生誕地:高知城下の山田町(現・高知市はりまや町三丁目)
■思想家,自由民権論者。
■明治4(1871)年,政府留学生としてフランスに渡り,1874年帰国。
■「東洋のルソー」と呼ばれた人物。
■1887年保安条例により東京から追放された

 

楠瀬喜多(くすのせきた)

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出典:Twitter
1836‐1920(天保7‐大正9)
■運送業(車力の人夫頭):袈沙丸(けさまる)儀平の長女として土佐藩に生まれる
■女性解放運動を続けた。
■「民権ばあさん」として知れわっていた
■日本最初の婦人参政権要求者。
 
(土佐藩士)楠瀬実と結婚、1872年(明治5)に夫を失い、立志社演説会に出入り、板垣退助らと交友。女戸主として納税の義務を果たしながら、投票権のないのは不当として県庁に抗議文を出す。

 

【自由民権運動の指導者】板垣退助と頭山満翁との交流とは

萩の乱「1876年(明治9年)」で入獄していた頭山は、出獄。
西南戦争で西郷隆盛が自刃した(明治10年9月24日)。
明治11年に、大久保利通が暗殺されました。頭山は、まず、板垣退助の動向を知るため、土佐行きを決断したのでした。
 
土佐に行き、「板垣に挙兵の意があるかどうか?」を尋ねたところ、板垣は否定します。頭山満に「民権自由論」を諭したのが板垣退助。板垣退助との出会いから、自由民権運動に目覚めた、頭山満翁だったのです。
 

 
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明治11年、板垣退助41歳、頭山満23歳でした。
西郷隆盛亡き後、政権打倒をするための、自由民権運動であった一面も見逃せません。
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高知城内にある板垣退助像
出典:観光名所旧跡めぐり旅行記

 

【東洋のルソー】中江兆民と頭山満翁は、親友だった!

頭山満翁と言えば、右翼の源流という表現を使われることが多いです。戦後(昭和20年以降)、特に右翼と言われる頻度が高いです。頭山翁は不本意でしょう。
 
その頭山翁と左翼思想の源点ともいえる中江兆民は親しく付き合っていたことはとてもよく知られた事実です。(左翼思想に深い影響を及ぼしたのは、幸徳秋水が中江兆民の門弟であるからです。)
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明治中期~後期に、日本政界を支配していたのは、伊藤博文と山県有朋。外交に関しては、伊藤博文が決定権を握っていたようだ。日清戦争後「下関条約」を結ぶ際、三国干渉に屈したことから、軍事力が必要だと痛切に感じて信じた伊藤だったが、ロシアに対してあくまでも妥協外交を貫いた。
 

そのことを、頭山翁は「(伊藤博文に)しっかりしてくれないと困る」と面罵し、それ以降、伊藤博文は頭山翁をトコトン避けるようになったという逸話があるようです。
 
中江兆民が病に伏して頭山満の最後のお見舞いに際して、
「伊藤 山県 ダメ 、後ノ事、タノム」と、頭山翁に託しました。それほどに中江兆民は頭山満翁を信頼していたというのですから、真摯に誠な心の交流があったとしか思えません。
 

【自由民権ばあさん】楠瀬喜多、頭山満翁の交わり

楠瀬喜多は高知の自由民権運動史に、名前を残しています。日本で女性参政権を求めた最初の女性です。楠瀬喜多は、幕末に米穀商の娘に産まれて、土佐藩士に嫁いでいます。
 
38歳の折りに夫と死別。家長となった喜多は夫が亡くなって4年後。明治11年9月、県庁に「納税ノ儀ニ付御指令願イ事」を提出し女性の権利向上を訴えたのです。
 
地方自治制度の議員を選ぶ権利を求めたのでした。高知では楠瀬喜多の活躍があり、明治13年、女性に町会議員の選挙権・被選挙権を認める規則を制定しています。
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頭山は高知に滞在中、楠瀬喜多の家に居候しています。楠瀬喜多は養女の婿として頭山満に懇願したそうですが、喜多の望みは叶いませんでした。楠瀬喜多の墓石には「頭山満建之」とあります。その後、昭和12年になって、82歳の頭山翁が喜多の墓に詣でたとの記録が残されています。高知で楠瀬喜多に世話になったという思いの表れではないでしょうか。
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楠瀬喜多。大正9年10月歿 享年87。墓所は、高知市筆山(ひつざん)の南西麓の登山道(潮江中学校の近くの登り口)から上がったところにあります。
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植木枝盛(うえきえもり)

土佐の自由民権運動の指導者である、植木枝盛も外すことはできません。

■出生地 土佐国
■生年月日 1857年2月14日 (安政4年1月20日)
■生誕地:土佐国土佐郡井口村(高知県高知市中須賀町)
■死没地 東京市
■没年月日 1892年(明治25年)1月23日(満35歳没)

頭山満翁との交流は、植木枝盛もあったのです。植木枝盛は、頭山翁の2歳年下でして、明治11年末に頭山翁が高知から福岡に帰る日、「植木君、僕は、今から福岡に帰るが、君も来ないか?」と誘われ、その場で「いいですよ」と即答し、福岡へと同行したとのことです。
 
頭山満は、植木枝盛に向陽社(玄洋社)の理論的な指導をしてもらえることを望んで、招いたという事でした。
 
植木枝盛は、明治12年正月4日~3月18日まで福岡に滞在し向陽義塾での講義をしています。なんと滞在中に38回もの演説を行ったというのですから、盛況ぶりが窺い知れます。
 
植木枝盛から、話は逸れてしまいますが、向陽義塾。福岡県有数の私学でした。その後、藤雲館、中学修猷館と名を変えて、現在は県立修猷館高校になっています。
中学修猷館からは、広田弘毅(元総理大臣)や中野正剛、緒方竹虎などが育ち、玄洋社の系譜と連なっています。植木枝盛が、修猷館の礎として一役買ったと言えるかも知れません。
 
この様に、頭山満翁と高知県(土佐人)との繋がりは、決して薄くは無いと言うことを記したかったのです。

 

辛亥革命、インド独立を支援した頭山満(最後の黒田武士)

「頭山満伝」(井川聡 著)は、総ページ数614頁にも及ぶ分厚い書物でした。一日50頁ぐらいでしたので、読了までに2週間ほどを要してしまいました。感想を述べるのは、とても骨が折れることです。
 
全ての事柄をまとめるのは不可能なので、心に残ったことを書き記してみます。
頭山満は、安政2年(1855年)4月12日、福岡城下西新町(現在:福岡市早良区西新)に、福岡藩馬廻り役・筒井亀策と頭山佐平の娘・イソの三男として生を受け、乙次郎と命名されました。
 
9歳の頃に鎮西八郎為朝に憧れ、自ら「八郎」と改名したそうです。更に明治元年(1868年)に太宰府天満宮を訪れ「天満自在天神」の『満』に感じ入り、満と再度の改名をしています。
 
明治6年(18歳)に母イソの実家・頭山家を継ぎ、頭山満となった次第でした。西郷隆盛が西南戦争で亡くなった後、西郷家(鹿児島)にいき、以来、西郷精神を血とし肉としていったのでした。
 
玄洋社で「一人でも淋しくない人間になれ」と諭しました。その真意は「自ら光を発する人間になれ」ということです。孫文は、第二革命に敗れ日本に亡命したことがあります。そのおりに、日本政府は袁世凱に気兼ねして掌返しで孫文を邪魔者扱いしました。この亡命時期(993日に及ぶ)に、孫文を支え、袁世凱からの刺客から守り抜いたのは、頭山満を中心とした玄洋社だったのは、紛れもない事実です。
 

玄洋社憲則として、公式発足時(明治13年)福岡県警に設置届けを提出。

  1. 皇室を敬う(尊皇)
  2. 國を愛する(愛国)
  3. 国民の権利を守る(民権)

この様に、今でも、充分に納得できる憲則が記されていたのでした。
 
戦後は右翼の源流と言われることも多いのですが、頭山翁は、お墓の下で迷惑そうな顔をしているに違いありません。明治のころから大正、昭和にかけて、アジアは欧米の白人たちが植民地にしてやりたいようにしていたのです。
 
つまり,欧米諸国によりアジアは抑圧されていました。抑圧からの解放を実行しようとしたのが、玄洋社であり、頭山満翁だったのです。
 
実際に、孫文の辛亥革命に至る過程は、頭山満の玄洋社や、内田良平の黒龍会が大きな力になったのです。内田良平は、

内田良平
辛亥革命は日本人がやったことだ

と、言っていた。そう、この「頭山満伝」に書かれています。その通りだと感じた次第です。
 
征韓論に敗れた西郷に師事し、自由民権運動から、国権論者になりました。それは、田を耕す(民権伸張)よりも田を守る柵を作る事(国権拡充)が大事との考えからです。
 
その延長から、大アジア主義(欧米のアジア抑圧からの解放)を唱え、生涯を捧げたと感じました。大巨人・頭山満翁。戦前は、畏敬の念で人気を集めた頭山翁が、戦後は、国粋主義者として否定的に捉えられて全く忘れ去られたようになっているのが淋しいと感じているのが、著者:井川聡の心情でしょう。
 
頭山翁は、辛亥革命の父・孫文や蒋介石とも非常に親しい間柄でしたから、日中が泥沼の戦争状態に陥った時に政府の交渉役として、中国に就いていれば、どういう展開になったのか・・・などなど。歴史にもしもは禁句ですが、考えてしまいます。
 

玄洋社は、戦後、GHQにより、超国家主義団体として断じられ、解散の憂き目に遭いました。頭山満翁は昭和19年に89歳で亡くなりましたので、その戦後を知らなくて、幸せだったのかも知れません。頭山満翁の偉大な伝記を読んで、明治とは厳しい時代だったと痛感しています。
 
大隈重信が不公平な条約改正を結ぼうとした際に、命を賭して、それを防いだのは元玄洋社の来島恒喜。明治22年のことでした。大隈襲撃事件の結果、条約改正は見送られたのです。来島恒喜は、事件の直後に壮絶な自死を遂げています。是非はありますが、厳しい生き方(厳しい明治)だったと思います。頭山満翁は、最後の黒田武士として、命を全うしたのです。
 

『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』

『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』は、延江浩の著書(発行:講談社 2017/3/8)。日本の右翼運動の源流として頭山満翁は語られることが多い人物で、その頭山満と松任谷由実が親戚であること、その関係を中心にした新たな視点で、大きな歴史として記されています。

中江兆民は、その門弟である幸徳秋水を通じて、左翼の思想に深い影響を及ぼした人と考えられ、頭山満翁と中江兆民の親しい間柄については、上記にあります。
 

本のタイトルにある「愛国」は、頭山満にかかり、「ノーサイド」は、松任谷由実にかかっています。松任谷由実の夫(松任谷正隆)の伯父の妻・尋子が、頭山満の孫娘なのだそうです。
 

著者の延江氏は、膨大な参考文献や資料、テレビやラジオ放送など。さらに多人数へのインタビューを敢行することで、エピソードを拾いあげました。そうして集められた断片を丁寧に結びつけました。近代から現代の歴史に小説的描写が加えられた物語を記したのが、『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』という書物であります。

 

最後までお読み下さりありがとうございました。

出典:「頭山満伝」(井川聡 著), 愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家(延江浩 著)